2015年2月10日

「毒」のあるはなし

 ノロウィルスが猛威をふるっている。絶えず様々な細菌やウィルスが出てきては、食中毒の渦を残していく。彼らもまた生きているのである。人間にとっては禍々しい災禍であっても、彼らにとっては進化の軌跡、まさにめくるめく渦の一つでしかない。静かに通り過ぎるのを待つほかない。すなわち、徹底的な手洗いとうがいでの予防、発生後の封じ込め、徹底的な消毒ということに尽きる。細菌やウィルスそのものに抗おうとすれば、新たな耐性種を生むだけである。

 「毒」ほどよくわからないまま使われている語もそうそうないだろう。現代において、「毒」といえば有毒性のある物質や毒素を持つ彼ら、その毒素そのものなどを指す。しかし、通俗的には「コーラの飲み過ぎは体に毒だ」「毒まんじゅう」「音楽中毒」等々、よくわからない用法も枚挙にいとまがない。

 一見、科学的な話に聞こえる「化学調味料の摂り過ぎは体に毒だ」も、よくよく定義を確認しながら聞く必要があろう。すべての化学調味料が「毒」だというのか、特定のナントカ酸がいかんというのか。いやいや特定のナントカ酸それ自体は「毒」ではないが、特定の油との組み合わせがいかんのか。工業的に生産された衛生的で純粋な食卓塩(塩化ナトリウム)も化学調味料といえよう。不純物だらけで、どんな副作用があるかわからないような天日塩こそ、潜在的に「毒」であるかもしれない。

 「摂り過ぎ」という「量」が「毒」になるという話が、一般には正確に理解されていないように感じる。勢い、「量」の話が頭から抜け落ちて、「コーラは体に毒だ」「化学調味料は体に毒だ」となる。やがて、自分の体との相互作用であることも忘れ、「コーラは毒だ」「化学調味料は毒だ」となる。食物アレルギーへの誤解が減らないのも、「(自分にとって)卵は毒でない」からといって「(誰にとっても)卵は毒でない」とは限らないということが、頭から抜け落ちているからだろう。

 ところで、塩の摂り過ぎは高血圧のリスクを高めるといわれて久しいが、減塩を気にしてみそやしょうゆを減らしすぎると、今度は有用な栄養素まで不足してしまう。それこそ「体に毒」ではないか。摂らないこと自体が「毒」なのだということすらできる。「毒」とはなんだろう。

 「毒まんじゅう」が一世を風靡したのは、1777年4月と2003年である。近年の「毒まんじゅう」の走りといわれる、かの殿様をして、再び表舞台に出ようというのは何の演目か。小型化の著しい昨今の「毒まんじゅう」なら、かの有名なカバンにもたくさん入りそうで安心だ。飛脚に送り届けてもらったのも今は昔。時代も進んだものである。やがては電子化されてフロッピーにも入るのだろう。

 古来、「毒」といえば「盛られる」ものという図式がある。「毒まんじゅう」も、史実としては「毒入りまんじゅう」であったという。それを「毒まんじゅう」と言い換えることで、あたかもそういう一種のまんじゅうがあるかのような響きに変わるのがおもしろい。おもしろいといっては語弊があるが、「毒ぶどう酒」から「毒カレー」まで、事件は絶えない。個々の事件において「毒」とは、具体的にはそれぞれ異なる化学物質だった。それらを単に「毒」とのみ呼ぶことによって、物質そのものよりも、それを「毒」たらしめる犯人の動機や行動にフォーカスが移る。「毒」とは、物質の毒性そのものではなく、人々を不安にさせる社会的な作用なのだといえる。

 食中毒といえば、生肉やフグ、毒キノコなどからの連想で「食の中(なか)に毒あり」という語感がするが、正しくは「食による中(あた)り毒」である。他方「食べることに関して病みつきである」とも読め、意外と難儀なことばである。病みつきであるという意味の「中毒」は、これまた通俗的な表現で、軽いものから重いものまで何とでも作用する。「まんじゅう中毒」といえば、もはや「まんじゅうの中(なか)に毒あり」とは聞こえない。

 食中毒もまた、「毒」に中(あた)らなかった人も含めて不安になるものである。「中(あた)り毒」そのものだけでなく、人々が不安になったという事実もまたインパクトが大きく、食中毒禍、ナントカウィルス禍と呼ばれるゆえんである。それでも、彼ら、すなわち細菌やウィルスにとっては、やはり渦でしかない。彼らが過ぎ去った後にカイワレサラダを食べて見せたところで、カイワレそのものは「毒」ではなかったのだから、何の意味もない。無心に88回も食べ続ければ、当人にとっては何か意味が出てくるのかもしれないが、やがては現場の所長に毒づかれることになる。何かを「毒だ」と決めつけることが容易であるのに対し、何かが「毒でない」ことを証明するのは、かくも困難なことなのである。

※本稿は2014年1月に校了していたが掲載の時機を逸していたものである。掲載にあたり、直前に発生した各種の事案等を勘案し、一部の字句を修正した。なお、本稿は特定の事案等について批評を加えるものではなく、「毒」という言葉の用法について言語的・文化的に検討するものである。
posted by tht at 12:00 | コメント (0) | トラックバック (0) | ながめよみのすすめ
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