2015年2月5日

みなさま、列車がまいります
   いま問う「謙譲語2(丁重語)」のココロ            

 言語は論理的に成り立っている。「気持ち」という曖昧な要素を持ち込むとおかしくなる。

・文化庁「敬語の指針」(2007年2月2日)
 http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/bunkasingi/pdf/keigo_tousin.pdf

 謙譲語を「謙譲語1」と「謙譲語2」に分けようというのは、「伺う」と「参る」、「申し上げる」と「申す」の使い分けができない人が多いからだ。しかし、これは現状追認を前提とした屁理屈にしか見えない。わかりやすくしようとして、かえってわかりにくくしてしまっているというのが率直な印象である。

 敬語、中でも謙譲語は、相手との間に上下関係を作り出すための言語表現である。もちろん、ここでいう上下関係というのは、便宜上のものである。上だから偉いということもなければ、下だから卑しいということもない。偉いから上ということもないし、卑しいから下ということもない。その場その場で、より円滑な人間関係が作れるように、一時的な上下関係をその都度作り出しているのだ。もちろん、ここでいう人間関係というのも、誰かと親しくなるという類の話ではない。店員と客の関係、生徒と先生の関係、部下と上司の関係といったもの、つまり、何かの目的を果たすための役割分担のようなものである。より円滑に目的を果たすためには、各々が自分の立場をわきまえて、その立場を演じきらなければならない。この立場というものを明確にするために、私たちは敬語を使ってきた。

 場面が変われば立場は変わる。しかし、人格はそう簡単に変わらない。敬語は、意識的に「モード」を切り換えるための「スイッチ」である。

 「謙譲語2」は「(丁重語)」とされている。しかし、謙譲語は謙譲語である。相手に対して自分が謙(へりくだ)って譲るために使われる、いくつかの語の特定の用法のことだ。語として謙譲語に分類される語を謙譲以外の意味で使うこともあるが、その用法においてその語は謙譲語ではない。

 「参る」や「申す」は、自分の動作はつまらないものだといって、相手の立場を高めている。会話ではいろいろな語が大胆に省略されることが多い。その結果、形式的には、誰が誰に謙っているのか、わからないような表現にもなりうる。しかし、だからといって、語の機能を形式的にのみ判断して「(丁重語)」と分類しようというのは、あまりにも形式的すぎる。

 「申し上げる」「申す」の正しい使い方を考えてみたい。

 目上の人に対して、あるいは企業(を代表する人)が不特定多数の顧客に対していう場合には、自分を下げて相手を立てるために、「申し上げる」という。

 目下の人がいっていることを目上の人に伝える場合、あるいはウチの人がいっていることをソトに対して説明するときなどには、「申している」という。

 「申し上げておる」には、これとは別のややこしさがある。「おる」には、従来の分類でいう謙譲語としての用法と、丁寧語としての用法の両方があり、使い手がどちらを意図しているのか、受け手としては一意に判別しにくいという問題がある。

 謙譲語としての「おる」が意図されていると受け取れば、既に自分を下げて相手を立てている「申し上げる」人に対して謙っていることになる。多くの場合、「申し上げておる」を自分や身内の動作に対して使う使い手が多いため、つまり自分や身内に対して謙っていることになり矛盾する。

 丁寧語としての「おる」が意図されていると受け取ったほうが自然な場合が多いが、その場合は逆に、既に「申し上げる」という謙譲語を使うことによって十分に敬語表現となっているのに、わざわざ丁寧語を付け足すというくどさが感じられることとなる。場面によっては、ことさらにくどいということがすなわち嫌味に、「(だからさんざん)申し上げておる(のに、どうしてわからないかねぇ)」といったふうに聞こえるということもあるだろう。

 もっとも、「申し上げておる」の問題は、何でも語尾に「おる」を使えば丁寧だという杓子定規な、モノを数える時は何でも「1個、2個」と数えるような粗雑な日本語運用の問題であって、敬語の分類の問題ではないのだといえる。

 自分より目上の人に対して使う場面では、あまり間違いようがないだろう。ちょっと難しいのは、目上の人に対して自分より下の人の動作を伝える場面や、自分より一段上の人のことを、それより上の人に伝える場面である。

 ただ、これも上下関係を厳密に考えれば間違わずに済む。自分より上か下かという、自分を中心にした関係を把握しているだけでは不十分だ。松竹梅…ではないが、上下関係には2つ上や3つ上もあれば、2つ下や3つ下もある。2つ上から見れば、1つ下と2つ下はともに下である。

 メーカーの修理受付の電話窓口で、電話対応の人と修理担当が別の人である場合、「係の者が伺います」といえるが「係の者が参ります」とはいえない。「係の者を伺わせます」というと、ひとごとのようで印象がよくない。「係の者を参らせます」とはいえない。電話を受けた人が自分で修理に出向くなら、「(私が)伺います」「(私が)参ります」のどちらでもいい。

 これは、単に丁重に言っているのではなく、お客様をお客様たらしめるため、お客様に対して謙っているのである。

 「バスが参りました」という例があるが、「(ちょうど)バスが参りました(ので、私はこのバスに乗らなくてはなりません)」という意味であれぱ、「お話も尽きませんが、そろそろお暇しなくては」という別れの切り出しを意味する。会話を終わらせる主導権がこちらにない場合に、バスの到着を口実にして切り出すことで相手を立てていることになる。形式的には丁重に言っているだけなのだが、言外の意味を考慮すれば謙譲の色が濃い。

 「明日から海外に参ります」というのも「(私は)明日から海外に参ります(ので、後をよろしくお願いします)」とすれば、単に丁重というよりは、後に残る上司なり同僚なり部下なり後輩なりに配慮して自分の動作を下げて言う表現ということになる。ここでは、きょうまでの上下関係はいったん解消され、明日以降も残る人々の全員が自分より上であるという意識だろう。

 もともとの用法でいえば「お客さま、お迎えの車が参りました」(大辞林第二版)というのがあるが、これはあくまでお客様に対してこちら(ホテルか何かだろうか)が謙る表現であって、丁重に言っているわけではない。だから、「参る」がモノや事象に対しても謙譲の意味で使えるという「謙譲語2」の区分はおかしい。「列車がまいります(参ります)」も同様で、そこに「みなさま」「お待たせいたしました」という文言があろうとなかろうと、お客様に対して鉄道会社が謙っているのである。列車が謙っているわけではない。モノや事象が自ら謙ることは不可能である。モノや事象へ言及する人が謙るのである。いろいろな文言が省略された結果として、形式的に文中の主語が「列車」であろうとも、本来の主語は鉄道会社なのである。「列車がまいります」とだけあっても、当のお客様は「(お客様のために我々が運行しております)列車が(だいぶお待たせいたしましたが、もうすぐ、まもなく、)まいります」と受け取る。「列車がまいります」の「まいります」は十分に、従来の謙譲語(「謙譲語2」ではなく)として機能している。

 「参る」という語自体が、文脈によって謙譲語であったり、丁寧語であったりする。どんな場合にも丁寧語であるということはなく、すべての用法が謙譲語であるわけでもない。謙譲語としての「参る」と丁寧語としての「参る」は、今までも適切に使い分けられてきた。「謙譲語2(丁重語)」という曖昧な区分は、いったい誰の、何の役に立つのだろうか。

 「気持ち」という表現は誤解を招く。解説を読む限り、この「気持ち」というのは「相手を敬う気持ち」ということではなく「この場面では相手を立てよう」という「発言の意図」を指しているように読み取れる。つまり、横柄な客でもお客様はお客様である。そんな客を相手に謙譲語を使うときには、「お客様を立てよう」という意図と「何だこの客は」という「気持ち」が同居していてよいのである。専門用語を安易に言い換えると言外のニュアンスが生じてしまう。文字通りに読めば、単なる「敬語の指針」が「気持ち」にまで言及するなど越境の度がすぎる、と受け取ることもできてしまう。

※本稿は2007年ごろに起稿し、掲載にあたって一部を修正したものである。

 「敬語の指針」に対する、より専門的な解説としては、以下を参照されたい。

・磯部佳宏「「敬語の指針」をめぐって」山口大学文学会志(2008年2月28日)
 http://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/G0000006y2j2/file/5429/20100507161808/B060058000007.pdf

posted by tht at 06:00 | コメント (0) | トラックバック (0) | ながめよみのすすめ
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